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第4回 TAKE

 〜信じる事、依存する事〜

 


(恐縮ですが、下記の内容はコラムと称した私信でもあります。この場を使わせて頂くことをお許しください。)
心理学で現代人の精神的な病に対する様々な療法や方策を書いた本がたくさん出版されている。
自己啓発本といわれるのも、サラリーマンに限らず、メンタル面フィジカル面を鍛えあげるスポーツ選手が読んだりと多岐にわたり、一流ともなると各トレーナーがついて精神面、栄養面等のプロフェッショナルが管理しているケースがほとんどだ。


社会人として成熟した大人が普通に生きる為には、なにがしかのストレスは付き物で、そのはけ口として様々なストレス解消法があるが、誰しも最終的には見下げた相手を心に持つことでそれらのほとんどを癒している。バイト時代の私に将来について説教する輩もいたが、あきらかに蔑む眼をしていた。下衆な話になるが誰しもが見下げる相手は必要で自分より以下と思える相手がいて自分が成り立っている。こういった拭いがたい本質は誰にでもある。


どんなに温厚な人間にも加虐意識はあり、冷たい人間にも情があったりするものだ。
安定剤、友人、アルコールに頼る事は決して悪いことではないが、これらは一種の麻酔。
無論受けた痛みを多少なり緩和する麻酔は必要だが、それに依存しすぎるのはどうであろうか・・・。
麻酔も同様で適量においては効果を発揮するが、使いすぎると麻薬のような危険も充ちている。
アルコール依存症がもっとも良い例であろう・・・。


昔の同僚に家族ぐるみでとある宗教団体に入信している方がいた。その方がある日飲酒で事故を起こし器物破損で相当な賠償金を課せられたことがある。その事に関し彼は私に、最近信仰を怠りその罰がきたんだと漏らしていた・・・。又それと同様な事を親からも言われたそうである。


残念ながらこういった人たちは親も含め物事の本質から逃げているとしかいいようがない。(ごく一部の宗教者にみられる典型的な悪いケースでもある。)
過去どんな恩恵がその信仰にあろうとも、又それによって自分がどんなに救われていようが飲酒運転をした己の過失を見ず、信仰の度合いでその事故を災難と捉え、あたかも避けられぬ天災のごとく扱うのは単に責任転換、放棄しているだけにすぎない。


オウム真理教にしろ、そこに入信してくる者の大半は自己不信の理由が欲しいケースが多く、そのために真理を追究する宗教団体に属することで自らを見極め、己を高見へと導きたいと思ったのだろう。その動機は清くもあり美しくもある。だが個が負担すべき痛みを公に依存しすぎた結果、それなしでは生きられない麻薬のような中毒性を帯びあげくにはあのような愚行を犯してしまった。


痛み、悲しみ、苦しみは自分でしか乗り越えられないし、緩和することはできても本質の部分でそれを自らが受け止めなければいけない。この事故を起こした当事者は信仰云々以前に犯した責任を認める事が欠落しているし、親も信仰心を掲げない教育が出来なくなっている。個が負担する責任を転化、依存することで、心そのものが脆弱しきっている。
そもそも何故に我が子の責任を信仰というものと等価で考えることができるのだろう・・・。


親はどんなに辛くとも、他者に委ねてはならない教育を子に施さなくてはいけないし、一般の家庭なら教育理念に団体の真理を持ち出すべきではない。個対個、それが親が子に伝える最後の砦だと思う。


著名な精神科医が、人生の大部分にあらゆる人格を使い分け、寝る直前に本当の自分に戻る方法をとれば人生もっと豊かに生きれると患者に説明していた。その先生の論拠として、生きていくにはそれに見合った人格を要所要所で作り出すことが最も重要で、その事は決して悪い事ではなく誰しもがしている術だとおっしゃっていた・・・。たしかに身の回りに起こった大半の事を虚像の人間として演じ接すれば痛みも受ける打撃も軽減されるであろう。効率的で理にかなっている。しかしこの発言、権威ある先生といえどやはり無責任な過保護な論旨に思えてならない。


それに私は小器用に生き抜くことだけが人生の全てだとは思っていない。身のまわりには全く社交的でないものも多いし、鬱の人もいる。そんな不器用きわまりない奴らを私は心底人間らしいと思う瞬間がある。彼らはその性格からして社会では大変な洗礼を受けることもあるが、彼らにはそれを払拭できる個があり耐えうる強さもある。


彼らと話していると麻痺した感覚が戻り体全身が研ぎ澄ますような濃い時間を送れる事も多かった・・・。
笑いたい時に笑える事が人間らしいというならば、そういう事が全く出来ない辛い経験をしてきた者もいるのだ・・・。
信じべき者は己自身であり、依存するのも信じた己でしかない。
その過程を経て、痛み、苦しみ、全て耐えたとき初めて人の尊さ、優しさに胸詰まる。


(今は辛いでしょうがFさん。耐えて下さい)